完璧な演奏なのに物足りなさの残るアンスネスの巻

レイフ・オヴェ・アンスネス リサイタル@さいたま芸術劇場

前半、後半ともに「小品→変奏曲」「時代が新しい→古い」というセットになっているコンセプチュアルなプログラムです。前半は当然グリーグに重点が置かれています。しかし曲の出来があまり良くなく*1普通に弾いたらものすごくつまんない駄曲で終わります。アンスネスの演奏はよく工夫されたものでしたが、やはり曲そのものが冗長なのであまり楽しめません。演奏に感心しても曲には感動できないというかんじです。
後半のシェーンベルクは細心の注意をもって弾かれました。静謐な空気感を持ちながら様々な音色を駆使して歌ってました。シェーンベルクであそこまで歌う人は珍しいかも。ベートーヴェンソナタは演奏内容は完璧、しかし演奏解釈はあと一歩及ばずでした。核心が見えているのにそこに踏み込もうとせず、外側から描写してしまうのです。以前のアンスネスは核心が見えにくい表面的な演奏も多かったので、核心の描写をしているだけでもかなりの進歩なのですが、見えているのになぜそこに踏み込んでいかないんだよ!と腹立たしく思いました。
アンスネスのピアニズムは、美しいものや素晴らしい曲に対する共感をなるべく客観的に伝えようとしていると思います。なので、共感そのものを感情的には表現しません。このような姿勢は表現主義や描写的な音楽(ドビュッシーラヴェルがその代表)にはとてもよくマッチしているのですが*2ベートーヴェンに適用するのは間違いだと思います。それはアンスネス自身も気づいているようで、なんとか自分の想いを伝えようと、一生懸命にブレスを深く取って演奏しているのです。でも、最終的には「演奏をまとめたい」というバランス感覚が優先されてしまうんですね。したがって、私も連れも「すごくうまいけど、最後の一歩が踏み出せない臆病な演奏だったよね」という感想になってしまいました。ピアノを弾く技術だけなら最高峰に属するピアニストですが、いまいち人気が出ない原因はここにあると思います。

以下は余談なんです。
アンスネスベートーヴェンは技術面では本当に立派だったのですが、演奏している様子はほとんど「もがき苦しむ」というように見えました。そりゃあ苦しいに決まってます。そこに見えている真実に手が届かないのではね。でも、それは決して手の届かないものじゃないと思う。真実を目のあたりにするのが怖くて、手を伸ばせないででいるんです。まるで未知のものに怯える子供です。「悲しいほど繊細」ってこういう人のことを言うんだなって思いました。翼を持ってるのに臆病で飛び立てないイカロスです。この曲を弾ききるには、太陽に焼かれることすら恐れずに飛び立たなければならないというのに。
そもそも、ベートーヴェンソナタの最初の「ダダーン!」ってオクターブを安全に両手で弾いた瞬間に完全に興ざめなのです。あの減七の強烈な雷鳴を、なぜ安全運転で弾けるのか?この人は頭おかしいんじゃないか?と思いました。あそこを片手で弾いてこそ溜めが入るし、溜めが入るからこそ緊張感が増すのに、両手で弾いちゃったら全然意味がありません。確かにオクターブの跳躍を片手で弾くのは危険です。ましてや曲の冒頭ですから、絶対にミスするわけにはいきません。だから両手で弾いた。…つまりアンスネスは恐怖に負けて安全策を取ったんです。それはこの曲の演奏解釈として完璧に間違ってるんです。
内田光子クリスティアン・ツィメルマンといったピアニストの演奏のどこに感動するかというと、曲の核心に踏み込んだ上で表現するところにあります。音楽に惚れ込み、その素晴らしさを聴衆と共有したいから、全身全霊で語りつくそうとする。これが彼らに共通するスタイルです。私はここに感動を覚えます。人間、そして人生は決して美しいだけのものではありません。醜悪なことも多いです。だからこそ輝けるものや美しいものを尊く思い、あこがれる。ベートーヴェンが最後のピアノソナタのアリエッタで歌い上げているのは、そういう世界だと思います。醜いものから目をそむけて美しいものだけに囲まれて暮らすなんて、そんな都合のいい話を描いたのではありません。アンスネスも真実に目をそむけず、勇気を持って恐れずに踏み込んでいくピアニストになってほしいと切に願います。

*1:もっとはっきり言うと、主題そのものがつまらない。

*2:アンスネスドビュッシーは絶品です。