槇原敬之のセクシュアリティ表現についての巻

私が彼の大ファンだったのですが、最近また彼についていろいろ思いをめぐらすことがあるのでちょっとメモしておきます。要点としては、デビュー後2〜3年間はマッキーって自身のアイデンティティに占めるセクシュアリティの割合がそれほど高くなかったよね、という話。

「どんなときも。」はカムアウトの歌

これネットでもよく見る論調ですし、知人もそう言ってましたが、どうも納得できません。ゲイリブやってたりする、ちょっと自意識過剰な人のサイトにそういうことが書いてあることが多いのですが、ゲイリブやってる人ってアイデンティティのほとんどがセクシュアリティに占められてるような人だからこそそういうふうに見えるだけじゃないの?とか思ってしまって。あと「好きなものは好きと言える気持ち 抱きしめてたい」の一節が取り上げられることが多いのだけれど、それはカムアウトじゃないだろう、と思うのです。自分としては「どんなときも。」はカムアウトというよりもっと広い意味での自己肯定の歌だと思っているので、あれがヒットしたことで槇原さんは補完されたのかなと思ってます(エヴァ的な意味で)。「どんなときも」が出る前のファーストアルバムがおっそろしいほど暗い曲ばかりで、こいつ1枚目からこれで大丈夫か?と心配になったのはよい思い出です。

「勝利の笑顔」は801ちゃん歓喜(?)

「冬がはじまるよ」のカップリングだった地味な曲です。最初聞いたときに、この歌詞変だよなあと思いました。いまならわかるんですけどこれボーイズ・ラブです。801ちゃんが喜びそうな世界。このタイプの曲は他にもあって、例えば「彼女の恋人」もそれ系統な感じ。仲の良かったノンケ友人に彼女ができちゃってプンスカ、みたいな嫉妬が感じられる歌詞が微笑ましい。「どんなときも」がヒットして音楽表現に自信がついたことと、表現の自由度を獲得したことで、音楽にセクシュアリティを反映させることを恐れなくなってきた現われではないかと思います。アルバムでいうと、4枚目あたりからそういう曲が増えてきてるように思います。

「足音」は長野五輪キャンペーン曲を装いつつ、実はゲイへの応援歌というダブルミーニング

この曲は変なんです。「ぼくらの行く先には何もないから」という一節がすごく気になりました。何もないって、どういうこと?ハートフル・ソングの中に一行だけ入っている絶望。基本的には暖かくて幸せな歌なのに、この部分だけどうして悲観的なんだろう?と、ずっと謎だったのですが、「だってこれ、ゲイの絶望そのものじゃないのさ」と、斎藤靖紀さんがさっくりと断言したのを見て納得。「その絶望を肯定しつつ、でもがんばって生きていこうよ、っていうゲイへの応援を込めた名曲」だそうです。オリンピックに迎合したキャンペーン曲なんか作りやがって、と批判的に見ていた人たちもいたようですが、斎藤さんのこの視点は的確だったと思います。で、実はこの件は本当にショックでした。まず10年以上槇原を聴いてきて、何にも彼のことを理解してない自分にまず腹が立ちました。それと同時に、セクシュアリティのことって、理解できないときはほんとうに理解できないんだなと実感しました。これはもう、どうしようもないことではありますが。

そんなことを思い返しつついろいろ聴く

近年の彼の歌詞があんまりリアリティがないのは、セクシュアリティを表ざたにしたくないという抑制が働いているようにも思います。リアリティが出ないようにするために、そういうテーマを慎重に避けているからなのかな、とか勘ぐっちゃいます。彼の詞には本来アイロニカルな視点があって、その中でささやかにポジティブな感情を描いていくところが繊細で魅力的に思えました。人は変わるものなので仕方ないのかな〜、と思いつつ、昔のマキハラくんはもういないという事実がちょっとさびしい私でした。