宇宙戦艦ヤマト第一作の巻

復活篇の公開に合わせて第一作の映画がTV放映されましたました。すごく久しぶりに見ましたが、いや〜、すごい。いま見ても十分に面白いし、興奮します。やっぱりこれすごいわ、としみじみ思ったので「ヤマトのどこがすごいのか」「アニメーションとしてどこが優れているのか」を書こうと思います。

圧倒的な作り手の熱意

これに尽きます。「何としてもこの作品を世に送り出すんだ!」という意思。その力がアホみたいに強く、熱いです。西崎プロデューサーがワンマンでいろいろ批判もあったようですが、リーダーがワンマンじゃない映画で面白い作品なんか存在しないのです。

登場人物が自発的

主題歌が物語ってるのですが「俺たちがやらねば誰がやる」が貫かれていて、すべての登場人物が自発的に動くので見ていて気持ちが良いです。状況的にヤケを起こしたり、発狂する奴がいてもいいと思うんですが、一切出てきません。TV版ではそういうエピソードも描かれるのですが、映画では出てこないのです。ゆえに、メッセージがぶれません。
あと、沖田艦長は当初は強力にリーダーシップを取っているのですが、徐々に権限を委譲して、困った時に相談できる上司のような位置づけになる構成が非常に優れていると思います。ヤマト第一作が古代の成長物語にもなった最大の要因は、沖田艦長からの権限移譲をきちんと描いたことにあります。このエピソードは誰が考えた付いたんだろう。リアリティと説得力がある演出です。この「困った時に沖田に相談」というエピソードは、さらばヤマトのクライマックスでリフレインされます。艦長席のレリーフに向かって「沖田さん・・・」と語りかける例のシーンです。

軍隊ではない組織体系

軍隊的な上官の命令は絶対という世界にしたくない、という演出意図は最初から見えていて*1、戦争をやってる組織としては統制が甘いと思うんです。おそらく実際に軍隊を知ってる人がスタッフにいて「なるべく軍隊的にしたくない」と主張したはずです。拳を胸の前に上げるヤマト式の敬礼にしても、軍隊式の敬礼を使いたくないからわざわざ別のポーズを考えた、という逸話があります。
想像ですが、富野善幸はヤマトのこういうところがウソっぽくて気に入らなくて、ファーストガンダムにおいて硬直的な軍隊組織を強調する演出を取ったんじゃないかなと思います。

アニメーション技術(1):よいところ

今回ようやく気づいたんですが、撮影がすごいです。冥王星から巨大ミサイルが発射される瞬間のハレーション(透過光)、奥行きを出すマルチ技法など、予算のなさを撮影技術でしっかりと補っています。宇宙を青くしたのもたぶん撮影上の理由です。つまり、セルのキズや汚れが目立たないように、やや明るい青色にしたと思われます。同様に、陰影も明るい。SF的には「宇宙は黒い。宇宙空間に存在する物体の陰影も黒い」なのですが、あえてそれをしないことで見た目が綺麗な画面を作っています。*2

アニメーション技術(2):イマイチなところ

作画レベルは低くないものの、画面レイアウトがかなり稚拙です。そのため、視覚的に物体の大きさを認識できません。ヤマトのロングショットが何度も出てくるんですが、カメラ位置設定と遠近法が不適切なため、視覚として巨大さが伝わってきません。横須賀あたりに行って自衛隊の艦を近く見ればすぐわかるんだけど、ああいう戦艦って近くに寄ると、見上げる視線になるんですね。その目線で高さ感を表現すべきなのですが、望遠レンズっぽい引きカットばかりでは高さの表現もなにもありません。赤茶けた大地に横たわる錆びついたヤマトの名シーンにしても、望遠で描かれているので画面の訴求力が弱くなっています。あそこはもっとアップにすべきでしょう。*3
というか、ヤマトが奥から手前へ進んでくるカットなどで顕著なのですが、基本的に遠近法が一点透視なんです。なので、奥行き感は強調されるのですが、垂直方向の高さ感が皆無という、おかしな絵になっています。レンズの位置(カメラ位置)を考えずに作画したカットばかりで、このあたりが「さらばヤマト」で作画監督の湖川さんが改善したかったポイントなんだろうなと思いました(ほとんど改善されなかったけど)*4。とにかく、湖川さんが「理論的にありえない」と熱弁していたヤマト本体の描き方は、その後の作品でもありえないまま慣習的に継続してしまった部分が多く、惜しいと思います。

番外:自分がデスラーだったらどうするか?

「地球人はサル」「地球の戦艦は弱い」という慢心がガミラス全滅という悲劇につながりました。波動砲が強すぎたという話もありますが、ガミラス側は最後までヤマトの戦力を見誤っていたのが敗因です。唯一、ドメル将軍だけが波動砲の危険性を強く意識した戦術を取って、ヤマトを追い込むことに成功しています。なのでデスラーさんもドメルさんに習うべきだったと思います。そもそもガミラスは滅亡の淵にあり国力も衰退していたはずですから、ドメル艦隊が全滅してヤマトにガミラス本星にまで攻め込まれた時点で敗色濃厚なんです。というわけで、政治的にはドメル戦死の時点で和平の可能性を探り始めるべきでしょう(ただし表面的にはまだ強気)。本土決戦は消耗するだけで無意味です。地球は遊星爆弾で大幅に人口が減ってますので、ガミラス人が入植することも可能なはず。自分がデスラーならガミラス本星にやってきたヤマトに対して「もう戦いをやめましょう。そのかわり、オーストラリア大陸よこせ。っていうかお願いだから移民させてください(泣)。」くらいのことは言いたいです。
それにしても、デスラーが廃墟と化したガミラスの都市を見下ろすシーンは泣けたなあ。あのバックに流れた音楽が歌なしの「無限に広がる大宇宙」というのがまた見事。

番外2:古代守が好きだった

私は初放映のときから古代守が好きで好きでどうしようもなく、今回久々に映画を見てもわずかしかない登場シーンで萌えていたのですが、この理由もわかりました。つまり自分自身が長男で、いつも「あなたはお兄ちゃんなんだからどうのこうの」と言われてきたので、お兄ちゃん子だった進に感情移入して、進と同じように守兄ちゃんが大好きだったんだ、ということでございます。
古代兄弟の両親は遊星爆弾の直撃で死んでいて、守と進は二人っきりの兄弟なわけで、このへんしっかり描くとかなりいいドラマになりそうですが、なにしろTV版は39話⇒26話に短縮されてしまっており、兄ちゃんの出番が最初とイスカンダル星しかないというありさまで(汗)。イスカンダルにやってきた守兄ちゃんと、ひとりぽっちだったスターシャのエピソードとかも、スターシャがちょっと語る程度で詳しくは描かれないのですが、それが逆に想像力を刺激して萌えるのです。そもそもスターシャがどんな人なのかもよくわからないというのがこのアニメの怖いところで、たぶんインスカンダルの王族でいまや唯一の生き残り、ですよね。そういう人に対して「スターシャさん、あなた、古代守さんを愛してますね?」とか、「古代守さんを連れて帰ってしまっていいんですか?」と詰め寄っていく森雪がすごいです。一人の女として素直になりなさいよ、と。なんという上から目線(笑)。
とにかく、地球と弟を捨ててスターシャを取った守兄ちゃんは本当に偉いと思います。まあ自分が古代守だとしても、イスカンダルに残る選択以外ありえないけどな。

番外3:アフレコやりなおしていないみたい?

有名なチョンボ「あとゼロ、2」が映画でも修正されていませんでした。これは本来「あと0.2」というセリフだったのですが、小数点が消えていたので富山敬が「ゼロ、(一呼吸おいて)2」と読んでしまったんです。

番外4:泣かないつもりだったのに

さっき書いたガミラスの廃墟のシーンと、沖田の死、それとエンドタイトルで青さを取り戻す地球、この3つで泣いてしまいました。まさかいまさら「地球か、何もかもみな懐かしい」で泣くとは予想外。というか、セリフの前に沖田が家族の写真を取り出したあたりですでにブワっときてしまいました。
正直なところ、ヤマトは思い出補正が強すぎるので、もう一度見てもガッカリ感が強いだろうと思って避けていたのです。でもいままでとは違う視点で見れたし、こんなに感動するならTV版と「さらば」も見直してみようと思いました。

*1:古代守が沖田の命令を無視して突っ込んでいくところとか。

*2:これがしばらくアニメ界の慣習になるのですが、「地球へ・・・」の映画で実写畑の監督文句を付けて黒い宇宙&黒い陰影の画面を作ります。

*3:来年公開される実写版のCGでは、この欠点を払しょくしている。

*4:ドック内のヤマトや、アンドロメダ登場シーンなど、さらばヤマトの前半は湖川流の空間パース描写が冴えてるのですが、中盤以降おざなりに。