ガンダムUCテレビ版最終回にあたっての巻

こんにちは。ゲロまみれになったリディ・マーセナスが愛しくてたまらない私です。
ガンダムUCテレビ版の最終回ということで、思うところを書きたいと思います。ほぼ「イデオン前章としてのガンダムUC」の話になります。
最初に結論を書いてしますが、シャアの怨念を昇華させてくれただけでなく、イデオンのトラウマをも払拭してくれたので、とっても満足でした、ということになります(笑)。

<シャアとフロンタル>
自分は「逆襲のシャア」が不完全燃焼で、特にシャアに関してずっとモヤモヤした感情を抱いておりました。つまりジオン・ダイクンの息子の人生が、あんな終わり方でいいのかよ、成仏できるのかよ、ということです。このときのシャアの怨念(イデオン的にいうと残留思念の一部)がフル・フロンタルに憑依する形になり、フロンタルが暴走していくさまを描いた物語がガンダムUCと見ることができます。なので、シャアの怨念が成仏しないかぎり、ガンダムUCは終わりません。アニメ版ではこの怨念がきちんと成仏したので、ようやくフロンタルの物語としてのガンダムUCは終わりました。最後にララァ、シャア本人にアムロまで登場するのは当然です。この3人が揃わないと「ララァ・スンは私の母親になってくれる人だったのに」というシャアの悲痛な思いを昇華させることができません。実はわたし、逆シャアのこのセリフが大嫌いだったんですけど、ガンダムUCのこのシーンでようやく許すことができました*1

<バナージ>
バナージは、宇宙世紀ガンダムではというか、ガンダム作品ではというか、もっというとロボットアニメでは例外的といってもいいほど、周囲の大人に恵まれた主人公です。ダグザ、マリーダ、ジンネマン、ブライトといった人たちの影響もあり、悩みながらも7つのエピソードの中で大きく成長していきます。後半になってバナージが言ってることが、カララさんそっくりな理想主義なのは、明らかにマリーダの影響でしょう。父親にはネグレクトされていましたが*2、それでも常にカーディアスの最後の言葉に従って、自分自身で考えて行動します。これが善き力の発動の原動力となったのは疑いようがなく、この力を自在にコントロールできるようになった最終盤のユニコーンガンダムは、まさに神に等しい存在だと言えます*3。この神の力は、イデのそれと同じなので、破壊の力にもなれば、創造の力にもなるという二面性を持っています。バナージが、どんな苦境にあっても「それでも自分は人の可能性を信じる」という心を持つことができたからこそ、善き力が発動したのだと思います。この部分は、自分を含めイデオンの悲劇をトラウマとして抱える人たちに、大きな感動を与えたと思います。

<リディ>
シャア、フロンタル、バナージというのはカリスマ性をもった主人公ですが、リディは過保護に育ったお坊ちゃまにすぎません。エリートコースを進んでいたはずが、バナージと出会ってからというものなにをやってもうまくいかず、好きな子にはフラレるし、自暴自棄になって暴れてとんでもないことをやらかすし、無意識的にサイコフレームと共振してゲロまみれ。いいところがありません。自分はそういう情けないリディに感情移入することができました。リディがずっと優等生だったら、こんなに好きなキャラになるることはなかったと思います。リディは箱の秘密を吐露することで、気持ちを整理することができ、さらにマリーダの残留思念や多くの人の支えを実感できことで真のニュータイプとして覚醒します。このシーンは2〜3秒しかないんですけど、その前がいろいろありすぎたのでとても感動しました。

<ミネバ>
ヒロインかと思いきや、狂言回しまでさせられたのが不憫でした。そういう立場の人なので、仕方のないことではありますが、ガンダムUCの登場人物の中では間違いなく最も前途多難そうなキャラです(;´Д`)

<マリーダ>
みんな言ってるように、マリーダさんこそ光だったよねっていう話です。

まだまだ言いたいことはありますが、バナージが知的生命体の意識の集合体たるイデ=サイコフレームの力に取り込まれそうになっても、最終的に戻ってきたのが素敵な終わり方だったと思います。富野さんだったら取り込まれて「行っちまったな・・・」「ああ・・・」っていうエンドにしかねないからさあ。あ、それはZガンダム(TV版)か(笑)

ということで、音楽が良かったのでなにか弾きます。
ガンダムUCからファーストまでを俯瞰するようなメドレーっぽいアレンジを考えているので、旧作のフレーズがいろいろ出てくることになりそうです。ピアノを弾いてると自然に出てくるのですわw

*1:何様

*2:これはロボットアニメの男子主人公のお約束

*3:この描写がわかりにくいのが難点。