シン・エヴァンゲリオン劇場版を見てから2日経ちました。結局のところ繰り返しの物語で、テーマ的にもTV版や旧劇場版に酷似しているのですが、気持ち悪さの度合いでいうとそれら上回るところがあると思ったので、とりとめもなくまとめます。簡単にまとめると、【庵野氏とモヨコさんのラブラブセックスに至る経緯をリアルに見せつけられてハズかしく感じる自分が気持ち悪い】です。
エヴァはTV版、旧劇場版、新劇場版の3種類がありますが、テーマはいずれ同じで見せ方が違うだけです。TV版最終回の言葉を新劇場版に置き換えた場合はこうなります。
1.真希波・マリ・イラストリアスが安野モヨコのメタファーということはエヴァ破の時点で周知の事実だったと思います*1。閉塞していた世界に突然やってきて、無条件にシンジを肯定し励ましてくれる、母親とは別の存在です。シン・エヴァンゲリオンではシンジは自分自身の願いでエヴァのない世界を再構築しますが、その場所へ送り出したのはマリでした。ここに至るシークエンスこそマリが言っていた【自分の計画】でしょう。結果的にシンジはマリと共謀する形でゲンドウの行動を止めて、自分がインパクトのトリガーになります。勘違いしてはいけないのは、マリの計画はゲンドウを止めることではなくて、シンジが主体的に動けるように導き、サポートすることです。
これを現実世界に置き換えると、モヨコさんの出現で庵野さん自身に巣食っていたネガティブな部分(これがエヴァの劇中ではゲンドウとして描かれた)との折り合いをつけることができるようになり、難航していたエヴァンゲリオンの物語を終劇させることができた、ということになります。
このような映画を私小説というのは、いささか綺麗すぎだと感じます。これはノロケ?10年以上かけて壮大なノロケを見せつけられているのはワタシ?という気分になりました。他人のノロケを見るのはどうも恥ずかしいですね。ムズムズします。
2.これで庵野さんはエヴァにさようならできました。
「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」が「さよならジュピター」のオマージュということもわかりました。ピアノ協奏曲みたいなドラマティックな劇伴(劇伴奏音楽。BGMのこと)がガンガン流れてきて、ハネケン(羽田健太郎)かよ!と思ったんですけど、さよならジュピターの劇伴を作ったのが羽田健太郎なんですね。劇伴についてはサントラ盤が発売になったらこのブログでしっかり掘り下げるつもりですけど、自分はハネケンの大ファンなので、シンエヴァの劇伴でハネケンをオマージュをしてくれたのは本当に嬉しかったです。
3.ついでにお前らもエヴァの呪縛から開放してやったわ。おめでとう(ドヤ顔で)←うっせーわ!(流行りの言葉)見事に開放されたわこんちくしょうめ。
庵野さんは、新劇場版は碇シンジの物語を描くと言い切っています。それは庵野さんが自分自身の物語を描くという覚悟ができたのだと思います。
マリ以外のエヴァのキャラは大なり小なり庵野さんの自我の影響があるようですが、旧作と大きく違うのはゲンドウの描き方です。先に書いたように、ゲンドウはダメな庵野さん自身のメタファーであるにもかかわらず、旧作ではさほど掘り下げられませんでした。なぜ掘り下げなかったのか当時はわかりませんでしたが、やはり覚悟が足りなかった。庵野さん自身の言い方を借りると、人前でパンツを脱いでいない状態です。旧劇場版で見せることができたのは、シンジが昏睡状態のアスカをおかずにオナニーするシーンまでです。そこに相手がいない状態でないとパンツを脱げなかった。
ゲンドウは、新劇場版:序・破では多少旧作と違うところを見せつつ、シン・エヴァンゲリオンではついにドス黒い本心を包み隠さず吐露します。しかし、この場面でゲンドウは自分自身を俯瞰して評価しているのでまだかっこつけています。そこからさらに進んで、ゲンドウがユイに補完され成仏するシーンになります。あの場面の気持ち悪さは耐え難いものがありましたが(赤の他人の夫婦のセックスなんか見たくない)、あれこそ人前でパンツを脱いだ庵野さんです。この気持ち悪い場面を描く覚悟ができたということでは大きな感動を覚えました。
また旧劇場版で最後にATフィールドの権化のようなセリフをアスカ(気になっている他人ほど強く拒絶する人)に言わせて、観客を拒絶することで現実への回帰を主張しましたが、新劇場版ではシンジからの働きかけを受けたり、長い時間が経つことでアスカ自身も変わることを描いていたのが印象的でした。
本当にとりとめもなく書いてしまった。
なにはともあれ、旧劇場版以上に踏み込んだ庵野秀明生板本番ショーをエンタメとして昇華できて本当によかったです。2度にわたる公開の延期という紆余曲折を経て無事に公開され、多くの称賛をうけた庵野さん自身にも「おめでとう」を言いたいです。
*1:中核スタッフがバラしていましたね。