ショパンエチュードに関する覚書ーピアニストから作曲家への変貌の兆しーの巻

折に触れてショパンの練習曲(エチュード)について考えているので、現時点で思ったことをまとめておきます。

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ショパンの音楽は絶対音楽であり、ショパン自身も自分の音楽は古典派であると認識していたのですから、その作品には多くの人が想像するような「想い」はあまり入っていない可能性が高いのではないでしょうか。たとえば革命のエチュードについても、ポーランドの革命とは関係ない可能性だってあるのです。強いていうならば、以下のようなコンセプトや職人魂のようなものはエチュードop.10やop.25の楽譜から読み取ることができます。

1.バッハ平均律集のような高尚な練習曲集を作る
2.ただの練習曲ではなく、1つ1つの曲の芸術性を高める
3.全体で1つの組曲のように演奏できる形に仕上げる
4.今までにない新しい練習曲集を作って一儲けしたい
5.ピアニストではなく作曲業へ移行したい(おそらくこれが本心)

ショパンはバッハ平均律集を練習曲代わりに弾いていたのですが、平均律集の特性である「調性の違いを生かした練習曲」を一歩進めて調性の違いを生かしたドラマティックな練習組曲を作ろうとしていたと思われます。

ショパンはまた、クレメンティツェルニーの練習曲が無味乾燥でつまらないことや、バッハ平均律集にも機械的な曲があることに気づいていました。自らが作るエチュードにはそれらに対するアンチテーゼも当然入りますし、ピアノ音楽に対する自分の哲学や美意識を詰め込んだ作品集として楽譜として出版し、世間の評価を得たいという野心もあったと思われます。ここまでは、楽譜からなんとなく読み取れます。

つまり「バッハの平均律集だって前奏曲ツェルニーみたいに機械的な曲があるけれど、自分の手にかかればホラこんなにピアニスティックで華やかになる。黒鍵だけを弾く冗談みたいな曲だって作れるんだ。みんな僕を見てくれ!僕の音楽を知ってくれ!」という主張が楽譜から伝わってくるのです。これを掘り下げると、演奏家から作曲家への脱皮という意図が見えてきます。

そのように考えるに至った理由は、ショパン自身がピアニストとしては成功できないことに気づいたからではないかと推測されます。ピアノ協奏曲を作っていた頃はプロのピアニストとして生活していくつもりでしたが、上京したウィーンでは成功できませんでした。でも同じようにピアニストとして成功できなかったツェルニーが大先生としてウィーンで君臨していました。しかも古臭い練習曲集を売っているのです。自分のほうがもっと斬新な曲を作れるのに。それなら自分も練習曲集を作ったらどうだろうか?

こうしてできたのがショパンエチュードop.10であり、op.10の成果をもとにさらに完成度を高めたのがop.25ではないかと思うのです。