坂本龍一の思い出の巻

自他共に認める教授(坂本龍一)ファンだったので思いつくままにいろいろ書いてみます。いちおう年代順になってます。

  • 資生堂と教授
    い・け・な・いルージュマジック以前から教授は資生堂関係の仕事をしています。資生堂はチェーンストア方式で商品を直販していて、わが家はまさにそのチェーンストアを経営しておりました。そして店内BGM用にオリジナル音楽を収録したテープが配られていました。大概は当たり障りのない音楽なのですがたまに妙にイラつく音楽がありまして、それが坂本龍一の作曲でした。ダカダカダカダカ…と16分音符が延々続くミニマル・ミュージックです。こんなもの化粧品店で流せるかよ、と思ったのですが、今となってはNGを出さなかった資生堂の判断に感嘆するばかりです。資生堂との仕事に関しては「坂本龍一全仕事」にチラッと出てきます。音源はもう手元にないです。
    この坂本龍一の起用以降、店内BGMテープの内容は先鋭的になっていきます。イーノの環境音楽が流行るといち早くそれっぽいテープが配布されてびっくりしました(これが久石譲の作だったという話です)。こうした資生堂メセナ的な若手作曲家支援活動をアート全般に対象を広げたのがバブル期のセゾングループだと思います。
  • 高校で大人気
    自分は1980年代前半に高校生をやってましたが、みんな口に出さないだけでYMOや教授は大人気だったようです。昼休みの卓球仲間だった友人がポロッとTIBETAN DANCEの一節を鼻歌に出したりするのでびっくりしたことを覚えてます。
  • 精力的だった80年代
    まだ仕事を選べなかったからだと思うんですが、80年代の教授は精力的に見えました。TV-WAR、モリサ・フェンレイのダンス音楽、王立宇宙軍 オネアミスの翼など、メジャーとアングラの境目のような作品を次々と手掛けたのがこの頃です。教授は渡米後もメジャーでない映画の音楽をいくつも手掛けていますが、この頃は制作時点で自分の興味があるサウンド民族音楽とかサンプリング機材とか)を大々的に展開し、趣味性の強い音楽になることが往々にしてありました。依頼者もそういうものを教授に期待していたように思います。
    モリサのダンス音楽はまさにその趣味性が現れたものでした。そしてその舞台公演に教授が参加するというので見に行きました。これが教授のライブの初体験です。実際は舞台というよりダンスカンパニーの発表会で、ダンスを含め非常に実験的なものでした。音楽はサンプリング満載で刺激的だったものの、1900年代前半のバレエ音楽のオマージュが強く、教授のオリジナティを十分に主張できていないような気もしました。オネアミスは教授の音楽を売りにしていたにもかかわらず、実際に本人がトラックを作ったのはごく一部にすぎなかったのでひどく落胆しました。教授ワールドが全開になることを期待していた制作陣も同様だったようです。
  • デヴィッド・シルヴィアンとのコラボ
    教授もデビシルもコラボが多いです。この二人の相性が特別なものだと認識されたのは、デジシルが戦メリの曲に歌を乗せたForbidden Coloursということに異論がある人はいないと思います。デビシルのほうが早期にアコースティック志向になって、それが教授に良い影響を与えたような気がしています。このコンビの最高傑作がデビシルのソロアルバムSecret of the Beehiveですね。教授が亡くなったことで、もうこのコラボが聞けないという喪失感があります。
  • ラストエンペラー
    オーケストラコンサートまで行ったんですけど、オーケストラを持て余していると感じました。コンサートの後半は戦メリだったんですが、そっちのほうが出来が良かった。教授はこのあと何度もオーケストラのコンサートをやりますが、初回が不出来だったのでリベンジしてやろうという気分があったのではないかと邪推しています。
  • バルセロナオリンピック
    リベンジその1だと直感しました。オーケストレーションを他の人に依頼したのが成功の鍵でしたね。このときの曲(El mar mediterrani)は教授の音楽史に残る名曲だと思います。後年のオーケストラコンサートでは原曲の2倍くらいの高速テンポで演奏されています。そちらのほうが教授の意図がよくわかります(大海原のような圧倒的権威との戦いと和解。和解するので教授も大人になったなあと思いましたw)
  • 再生YMO
    本本堂から出ているテクノドン本に表面的な内情(なんだそりゃ)が書かれています。坂本さんと細野さんの微妙な関係はこの頃がピークだったようです。東京ドームの初日に行きました。その現場でも緊張感がわかりました。ただ映像(概ね2日目のもの)を見ればわかるように、ライヴ中盤以降は楽めるようですね。
  • 1996
    90年代の中頃ですね。ユーミン荒井由実コンサートをやるなど太平洋戦争後に生まれたミュージシャンが中年期に入り一斉に回顧的活動をした時代です。教授の1996も回顧的活動と見ることができます。自分の周囲ではここが最高峰という声が多いです。でもこの頃は教授はピアノがあまりうまくて(注:クラシックなピアノ演奏の観点)、少なくとも演奏面では最高扱いしてはいけないような気がします。ピアノにMIDIでシンセをレイヤーして間を維持するようなことをしょっちゅうやっていました。それはそれで面白かったですけどね。
  • その後
    1996のライヴはすさまじく素晴らしかったのですが、同時にこんな後ろ向きのことをやるようになったらものを作る人としては終わりかもしれないと思ったのも事実でした。大貫妙子さんとのコラボなど佳作はあったものの、今までの方法論の焼き直し的な雰囲気もあり手放しで絶賛するのは憚れました。
    また2000年代に入ってからも、ピアノコンサートなど機会があれば行きました。ピアノ演奏技術は明らかに向上してきて、音色を作り出して演奏するという意識が見えるようになりました。ただ手抜きとまでは言わないものの、1996のライヴで見せた高いテンションには遠く及ばない演奏会も少なくなく、お金を払ってまで聞く音楽家ではなくなったと判断せざるをえなくなりました。そしてたまにリリースされるCDを買うだけになりました。