松任谷由実:中期(前)の松任谷正隆アレンジについての巻

松任谷由実:中期(前)という言い方は、ライブのMCにおけるユーミン自身の発言の引用です。要は社会人の独身女性をターゲットに、キラキラしたラブソングを打ち出すマーケティングをしていた時期(バブル期~1990年代前半)のことだと思われます。

この時期はポップス音楽が急速にデジタル化していった時期で、コンピュータと電子楽器を中心に仮トラックを作っておいて(これをプリプロプリプロダクションと称した)、生音に差し替えボーカルを入れるという制作方式が普及していました。松任谷正隆さんもユーミンのアルバム「ダイヤモンドダストが消えぬ前に」からシンクラヴィアというサンプラーシンセサイザーを導入した制作を始めます。

それで何が変わったかと言うと、音が悪くなって安易な打ち込みが目立つようになります。典型的なのがアルバム「Delight slight light KISS」の1曲目「リフレインが叫んでる」で、機械的で平板な8分音符刻みの安っぽいピアノや、うるさいドラム(当時の流行)はなんとかならんかったかな~と思うわけです。

これは正隆さんも失敗したと思ったようで、次のアルバムLove Warsの1曲目「Valentine's RADIO」はリフレイン~と全く同じ8分音符の刻みを使ってリベンジしてきます。Valentine's RADIOのピアノも打ち込みなのですが、正確無比な8分音符ではなく、拍の裏が若干弱くリズムがわずかにハネています。このちょっとした違いで楽曲のドライブ感が全く変わってくるのでした。転んでもタダでは済ませない人ということがわかる一件です。

そしてシンクラヴィアと打ち込みを完全に掌中に収めたのは大ヒットした「天国のドア」からだと思います。シンクラヴィア自体もバージョンアップして音質が向上しました。

ここでファンとしてはホッと一息ついたのですが、次の「DAWN PERPLE」でまた迷走が始まります。今度は1曲目「Happy birthday to you ~ヴィーナスの誕生」で前年に爆発的にヒットしたマドンナのVogueを中途半端にオマージュしたアレンジをします。

わたしもマドンナは大好きですがこれはちょっといただけない、と思っていたら、また次のアルバム「TEARS AND REASONS」の1曲目で今度はVogueだけでなくそれまでのマドンナのサウンドを換骨奪胎したようなアレンジをしてきます。しかもマンハッタン・トランスファーのホーンアレンジャー(Jerry Hey)を入れたのでハウスとフュージョンが渾然一体としたサウンドになりました。これはいまでもめちゃくちゃカッコいいアレンジと思います。(余談ですが、カシオペア向谷実さんのシンセブラスはJerry Heyの完コピだと思います。あれをキーボードで弾けるのが神業です)

なお正隆さんはユーミンのその次のアルバム「U-miz」の1曲目でPat Methenyをオマージュしてきます。ここに至って、まるで自分のようにミーハーな人だなあと思いました。

恐ろしいのは、マドンナのVogueにしてもPat Methenyにしても、正隆さんは当時20代前半だった自分がハマっていたのと同じ音楽にハマってるということです。正隆さんは自分より15歳も年上で坂本龍一さんと同世代です。なのでビートルズ世代になります。坂本さんもそうなのですが、30~40代でデジタル化の波に取り残されず新しい環境にチャレンジして、常に流行の音楽にアンテナを張って感性のアップデートができているのはすごいことだなと、改めて感嘆した次第です。

なぜいまこんなエントリーを書いたかと言うと、ここのところユーミン:中期(前)のアルバムを改めて聞いているからです。
この時代のアルバムはジャケットが凝っているので、当時買い逃したものもオリジナルを探して入手しているんですが、先に述べたように音が悪いので後になってリマスタリング盤が出ています。こちらは持っていないので、これから買い揃えるつもりです。(配信はいつ終了になるかわからないので怖いですよね)

バブル崩壊後も、バブルの空気感を持った松任谷由実:中期(前)はしばらく続きます。その要因としては、世の中の景気低迷にともなって廉価に楽しめるエンタメとしてカラオケ需要が増えて、CDの売上がどんどん増えていき音楽業界が盛況になっていったことも大きいと思います。方向性が変わるのはU-mizの次の「The Dancing Sun」です。実はこのとき「春よ、来い」が大ヒットしているんですけど、バブルの空気感が一掃されています。その直後の1996年の荒井由実回顧活動後は松任谷由実:中期(後)だと感じます。そして中期(前)の物質文明賛美的な表現は影を潜め、スピリチュアルな(注:当時さかんにユーミンがクチに出していた言葉)世界へと向かうことになります。