いつもどおり1音たりともおろそかにしないで鳴らし切る演奏です。テンポが抑制されていることも影響して、速いフレーズでも1つ1つの音符がしっかり分離してきます。また近年のエル=バシャはポリフォニーの表現がものすごく精緻で、複数の声部を異なる音色、異なるアーティキュレーションで演奏してきます。しかもあからさまに違うのではなくて、同じファミリーの中にありつつ、性質が異なるものとして提示してくるところが他の多くのピアニストとの違いになると思います。また、カンタービレが控えめで感傷的な表現を極力避けているのも特徴です。
一般的に、ショパンの演奏においては伴奏や和声感の演出に使われる音は明確には弾かず、ボヤッと響く程度に鳴らすのがよいとされていますが、エル=バシャの演奏は全部を明確に聞かせます。もちろんうるさくはないし、しっかりコントロールした上で、繊細に、そして何より『すべての音に平等に価値を与えた上で克明に』鳴らします。そのため音符は音楽というしがらみから解き放たれて、単に美しい音が次々と鳴り響くだけ、というような状態にまで還元されます。自分はこういう演奏を聞くと、眼の前で楽譜がバラバラに分解していくような印象を受けます。いわば音楽のゲシュタルト崩壊です。つまりエル=バシャはショパンの音楽を詳らかに分解した上で演奏しきっています。
ショパンの楽曲構造は古典的でかなり強固ですし、なにより主題(メロディ)のポテンシャルが非常に高い作曲家ですからどうしてもそこに引きずられた演奏になりがちです。言い換えればこれがショパンの音楽のわかりやすい魅力です。しかしエル=バシャはそういう魅力には決して屈しません。
こういう演奏なので、即物的な印象を与えかねず、一般的にはあまり受け入れられないのではないかと思います。ただエル=バシャの考えるショパン像が完璧に表現されているという点で極めて高く評価したいと思います。
なおショパンコンクールでこういう演奏をすると「ショパンらしくない」という評価を下されて予選落ちしそうです。そして「いや、彼は天才だ!」という人が出て大騒ぎになります。(実はエル=バシャが若い頃に出たコンクールでそういう炎上が起きています)